森田益子さん、81歳。
部落解放同盟中央執行委員婦人対策部長や高知市会議員、県会議員などを歴任。現在は(社)高知市労働事業協会理事長として、若々しくエネルギッシュに前線を指揮している。
2004年、自力自闘で作り上げた「やさしい里」は、解放運動50年に及ぶ森田さんの集大成の場。人間の尊厳を求めて——その貧しく苦しい生いたちから学び、人との出会いや長い闘いの中で身につけた理論と実践の後に、成果という大きな足跡が遺っている。
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2人の教え
1924年、高知市の被差別部落に生まれた森田益子さんは、部落解放運動の最前線で闘い続けてきた。
その原点となった生いたちを、森田さんはこう語る。
「部落差別の前に女性差別があった。貧しさの中、石工や荷車引きなど、男にまじってありとあらゆる仕事をしてきました。」
30歳で部落解放運動と出会った森田さんに、解放運動に関わっていた父は厳しく言い放った。
「おまえも、いらんこと始めるか。人の世話をしても、礼も言うてくりゃあせんぞ。それを覚悟しておれ。また、信頼した同志に裏切られるときもある。そのときに恨まずに乗り越えられるなら、やれ。」
そして大きな転換点となったのが、藤沢喜郎さんとの出会いであった。藤沢さんは部落解放同盟中央本部副委員長も務めた、高知の解放運動の中心的人物であった。
「どんなところから大衆に招かれても出ていけ。そのために確固たる理論と、それを裏づける実践がなければいけない。理屈だけでは、人に感銘を与えることはできない。」
この2人の教えは、その後の森田さんの人生を大きく方向づけることになる。
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仕事保障への取組み
森田さんは1975年、50歳で初当選し、以後2003年まで28年間にわたり市会議員、県会議員を務めた。その間、差別の撤廃・社会保障の底上げのため、さまざまな差別糾弾や行政闘争を行った。
その1つ、生活保護法の110年ぶりの改正へ向けての取り組みは、男女同権の礎を築いた歴史的な闘争であった。
さらに「差別の本質は仕事、仕事保障こそ人間解放の道」と、森田さんはトイレや公園、公共施設の清掃、さらには競馬場、市役所の整備などの委託を受け、部落大衆の仕事保障を次々に実現していった。
高齢化時代を迎えた2000年からは介護保険事業を開始。仕事保障と福祉運動の融合である。現在、訪問介護の利用者は600人、ヘルパーなど福祉関係者は350人に上っている。
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「やさしい里」を建設
2004年、待望の「やさしい里」を自力自闘で建設。ここは「福祉活動こそ究極の解放運動だ」と語る森田さんの集大成の場である。
「尊厳をもって接する」という森田さんの考え方をスタッフ全員が深く共有し、部落の内外を超えて地域とのつながりを深めている。今日も全国からの見学者が絶えない。
森田さんはこう言う。
「子どもを叱るな、わが来た道。年寄りを粗末にするな、わが行く道。」
愚直なまでの当たり前の条理は、森田さんの80年の人生の真実である。
そして、誰もが納得できるからこそ、森田さんの解放運動は大衆の心を掴み、歴史に残る大きな足跡を遺してきたのではないだろうか。